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 一云,初天日槍乘艇はしぶね泊于播磨國はりまのくに,在於宍粟邑しさはのむら。時天皇遣三輪君みわのきみ祖大友主おほともぬし與倭直やまとのあたひ祖長尾市ながをち於播磨,而問天日槍曰:「汝也誰人?且何國人也?」天日槍對曰:「僕やつこ新羅國主こにきし之子也。然聞日本國有聖皇,則以己國授弟知古ちこ而化歸之。」仍貢獻物,葉細珠はほそのたま、足高珠あしたかのたま、鵜鹿鹿赤石珠うかかのあかしのたま、出石刀子いづしのかたな、出石槍いづしのほこ、日鏡、熊神籬、膽狹淺大刀いささのたち,并八物。  仍詔天日槍曰:「播磨國宍粟邑、淡路嶋出淺邑あはぢのしまのいでさのむら,是二邑汝任意居之。」時天日槍啟之曰:「臣將住處,若垂天恩あめのみめぐみ,聽ゆるし臣情願地者。臣親歷視めぐりみ諸國,則合于臣心欲被給。」乃聽之。於是天日槍自菟道河うぢかは泝之,北入近江國吾名邑あなのむら而暫住。復更自近江經若狹國わかさのくに,西到但馬國,則定住處也。是以近江國鏡村谷陶人かがみむらのはざまのすゑびと,則天日槍之從人つかひびと也。  故天日槍娶但馬國出嶋いづし人太耳ふとみみ女麻多烏またを。
  生,但馬諸助たぢまもろすく也。    諸助生,但馬日楢杵たぢまひならき。     日楢杵生,清彥きよひと。
     清彥生,田道間守たぢまもり之。 三、狹穗彥王謀反  四年,秋九月丙戌朔戊申,皇后母兄狹穗彥王さほびこのみこ謀反,欲危社稷くに。因伺皇后之燕居而語之曰:「汝孰愛兄いろせ與夫をひと焉?」於是,皇后不知所問之意趣みこころ,輙對曰:「愛兄也。」則誂皇后曰:「夫以色かほ事人,色衰寵緩めぐみゆるふ。今天下多佳人かほよきをみな,各遁進たがひすすみ求寵,豈永得恃色乎?是以冀吾登鴻祚あまつひつぎ,必與汝照臨天下,則高枕而永終百年,亦不快乎?願為我弒天皇!」仍取匕首ひもかたな,授皇后曰:「是匕首佩于裀ころも中,當天皇之寢,迺刺頸而弒焉!」皇后於是心裏兢戰おぢわななき,不知所如。然視兄王之志,便不可得諫いさむ。故受其匕首,獨無所藏,以著衣中。遂有諫兄之情こころ也。
 五年,冬十月己卯朔一,天皇幸來目くめ,居於高宮たかみや。時天皇枕皇后膝而晝寢ひるね。於是皇后既無成事,而空むなしく思之:「兄王所謀,適是時也。」即眼淚流之落帝面。天皇則寤之おどろき,語皇后曰:「朕今日夢矣,錦色小蛇にしきのちひさきへみ繞于朕頸,復大雨從狹穗さほ發而來之濡面,是何祥しるし也?」皇后則知不得匿謀,而悚恐おぢかしこみ伏地,曲上兄王之反狀そむくさま。因以奏曰:「妾不能違兄王之志こころざし,亦不得背天皇之恩みうつくしび。告言則亡兄王,不言則傾社稷。是以一則以懼,一則以悲,俯仰喉咽むせひ,進退而血泣いたくなく,日夜懷悒いきどほり,無所訴言うるたへまをす。唯今日也,天皇枕妾膝而寢之,於是妾やつこ一思矣:『若有狂婦くるへるめ,成兄志者,適遇是時,不勞以成功乎?』茲意未竟,眼涕自流。則舉袖拭涕,從袖溢之沾帝面。故今日夢也,必是事應焉。錦色小蛇,則授妾之匕首也。大雨ひさめ忽發,則妾眼淚也。」天皇謂皇后曰:「是非汝罪也。」即發近縣ちかきあがた卒,命上毛野君かみつけののきみ遠祖八綱田やつなた,令擊狹穗彥。  時狹穗彥與師距之,忽積稻作城。其堅不可破,此謂稻城いなき也。踰月不降。於是皇后悲之曰:「吾雖皇后,既亡兄王,何以面目おもて,蒞天下耶?」則抱王子譽津別命,而入之於兄王稻城。天皇更益軍眾,悉圍其城,即敕城中曰:「急出皇后與皇子!」然不出矣。則將軍いくさのきみ八綱田放火焚其城。  於焉皇后令懷抱皇子踰城上而出之,因以奏請曰:「妾始所以ゆゑ逃入兄城,若有因妾子,免兄罪乎。今不得免。乃知,妾有罪。何得面縛,自經而死わなきてみまからく耳。唯妾雖死之,敢勿忘天皇之恩。願妾所掌后宮きさきのみや之事,宜授好仇。丹波國たにはのくに有五婦人,志並貞潔いさぎよし,是丹波道主王たにはのみちぬしのきみ之女也。【道主王者,稚日本根子太日日開化天皇子孫彥坐王ひこいますのひこ子也。一云,彥湯產隅王ひこゆむすみのみこ之子也。好仇者,好逑之謂也。】當納掖庭,以盈后宮之數。」天皇聽歟。時火興城崩,軍眾悉走,狹穗彥與妹いろも共死于城中。
 天皇於是美將軍八綱田之功,號其名謂倭日向武日向彥八綱田やまとひむかたけひむかひこやつなた也。 匕首 狹穗彥授皇后匕首,令弒帝於夢
錦色小蛇 垂仁天皇發夢,有錦色小蛇繞于頸,復大雨從狹穗發而濡面。 月岡芳年『大日本名將鑑』上毛野八綱田
八綱田與狹穗姬 大日本名將鑑 奈良縣舊當麻町【現葛城市】 當麻蹶速之塚 當麻蹶速之塚
麻蹶速為人強力,能毀角申鉤,與野見宿禰令捔力而為其所殺。二人遂為相撲之祖。 菊池容齋『前賢故實』野見宿禰 野見宿禰 前賢故實
奈良縣櫻井市出雲 野見宿禰塚跡 野見宿禰塚跡 野見宿禰與當麻蹶速捔力。兩相對立,各舉足互蹶。則蹶折當麻蹶速脇骨,亦蹈折其腰而殺之。
 七年,秋七月己巳朔乙亥七,左右奏言:「當麻邑たぎまのむら有勇悍士,曰當麻蹶速たぎまのくゑはや。其為人也,強力以能毀かき角申のぶ鉤。恒語眾中曰:『於四方求之,豈有比我力者乎?何遇強力者ちからつよきひと,而不期死生,頓ひたぶるに得爭力ちからくらべ焉。』」天皇聞之,詔群卿まへつきみたち曰:「朕聞:『當麻蹶速者,天下之力士也。』若有比此人耶?」一臣進言:「臣聞:『出雲國有勇士,曰野見宿禰のみのすくね。』試召是人,欲當于蹶速。」  即日,遣倭直祖長尾市,喚野見宿禰。於是,野見宿禰自出雲至,則當麻蹶速與野見宿禰令捔力ちからくらべ。二人相對立,各舉足相蹶あひくう。則蹶折くゑをり當麻蹶速之脇骨かたはらほね,亦蹈折ふみをり其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地,悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田こしをれだ之緣也。野見宿禰乃留仕焉。  十五年,春二月乙卯朔甲子十,喚丹波五女,納於掖庭。第一曰日葉酢媛,第二曰渟葉田瓊入媛,第三曰真砥野媛まとのひめ,第四曰薊瓊入媛,第五曰竹野媛たかのひめ。
 秋八月壬午朔一,立日葉酢媛命為皇后きさき,以皇后弟之三女為妃みめ。唯竹野媛者,因形姿醜かたちみにくき,返於本土もとつくに。則羞其見返,到葛野かづの自墮輿而死之。故號其地謂墮國おちくに。今謂弟國おとくに,訛よこなまれる也。  皇后,日葉酢媛命ひばすひめのみこと,生三男二女。   第一曰,五十瓊敷入彥命いにしきいりびこのみこと。
  第二曰,大足彥尊おほたらしひこのみこと。   第三曰,大中姬命おほなかつひめのみこと。   第四曰,倭姬命やまとひめのみこと。
  第五曰,稚城瓊入彥命わかきにいりびこのみこと。  妃,渟葉田瓊入媛ぬばたにいりびめ。   生,鐸石別命ぬてしわけのみこと與膽香足姬命いかたらしひめのみこと。
 次妃,薊瓊入媛あざみにいりびめ。   生,池速別命いけはやわけのみこと、稚淺津姬命わかあさつひめのみこと。 五、譽津別王
 二十三年,秋九月丙寅朔丁卯二,詔群卿曰:「譽津別王ほむつわけのみこ,是生年既三十,髯鬚八掬ひげやつか,猶泣如兒わかご,常不言,何由矣?因有司而議之。」  冬十月乙丑朔壬申八,天皇立於大殿前,譽津別皇子みこ侍之。時有鳴鵠なきくくひ,度大虛おほそら。皇子仰觀鵠曰:「是何物耶?」天皇則知皇子見鵠得言而喜之,詔左右曰:「誰能捕是鳥獻之?」於是鳥取造ととりのみやつこ祖天湯河板舉あめのゆかはたな奏言:「臣必捕而獻。」【板舉,此云たな拕儺。】即天皇敕湯河板舉ゆかはたな曰:「汝獻是鳥,必敦賞矣。」時湯河板舉遠望鵠飛之方,追尋詣出雲而捕獲とらへつ。【或曰,得于但馬國。】  十一月甲午朔乙未二,湯河板舉獻鵠也。譽津別命弄もてあそび是鵠,遂得言語。由是敦賞湯河板舉,則賜姓かばね而曰鳥取造。因亦定鳥取部ととりべ、鳥養部とりかひべ、譽津部ほむつべ。
白鳥渡空 譽津別命及壯,仍不能言語,見鳴鵠渡空而始得言。天皇命湯河板舉補之,遂獲於出雲。是後,譽津別命弄是鵠,終得言語。 五十鈴川
伊勢五十鈴川 宇治橋傍 伊勢神宮藏 玉纏御太刀 特展伊勢神宮與諸神之美術
卜兵器為神幣,吉。諸神之社,遂納兵器以祭神祇。  二十五年,春二月丁巳朔甲子八,詔阿倍臣あへのおみ遠祖武渟川別たけぬなかはわけ、和珥臣わにのおみ遠祖彥國葺ひこくにぶく、中臣連なかとみのむらじ遠祖大鹿嶋おほかしま、物部連もののべのむらじ遠祖十千根とをちね、大伴連おほとものむらじ遠祖武日たけひ,五大夫いつたりのまへつきみたち曰:「我先皇御間城入彥五十瓊殖崇神天皇,惟叡作聖,欽明聰達,深執謙損,志懷沖退,綢繆機衡,禮祭神祇あまつかみくにつかみ,剋己勤躬,日慎一日。是以人民富足,天下太平也。今當朕世,祭祀いはひまつる神祇,豈得有怠おこたり乎?」  三月丁亥朔丙申十,離天照大神あまてらすおほみかみ於豐耜入姬命とよすきいりびめのみこと,託于倭姬命。
 爰倭姬命求鎮坐大神之處,而詣菟田筱幡うだのささはた,【筱,此云ささ佐佐。】更還之入近江國あふみのくに,東迴美濃みの,到伊勢國いせのくに。時天照大神誨倭姬命曰:「是神風かむかぜ伊勢國,則常世之浪重浪歸國とこよのなみのしきなみよするくに也,傍國可怜國かたくにのうましくに也。欲居是國。」故隨大神教,其祠やしろ立於伊勢國,因興齋宮いつきのみや于五十鈴川いすずのかは上。是謂磯宮いそのみや。則天照大神始自天降之處也。  一云,天皇以倭姬命為御杖みつゑ,貢奉於天照大神。是以倭姬命以天照大神,鎮坐於磯城嚴橿しきのいつかし之本而祠之。  然後隨神誨,取丁巳廿六年冬十月甲子,遷于伊勢國渡遇宮わたらひのみや。是時倭大神やまとのおほかみ著穗積臣ほづみのおみ遠祖大水口宿禰おほみなくちのすくね而誨之曰:「太初はじめ之時,期曰:『天照大神悉治天原あまのはら,皇御孫尊すめみまのみこと專治葦原中國あしはらのなかつくに之八十魂神やそみたまのかみ,我親治大地官おほつちつかさ者。』言已訖矣。然先皇御間城崇神天皇雖祭祀神祇,微細未探其源根,以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以今汝御孫尊悔先皇さきのみかど之不及而慎祭,則汝尊壽命延長,復天下太平矣たひらかならむ。」
 時天皇聞是言,則仰中臣連祖探湯主くかぬし,而卜之誰人以令祭大倭大神やまとのおほかみ。即渟名城稚姬命ぬなきわかひめのみこと食卜焉。因以命渟名城稚姬命,定神地於穴磯邑あなしのむら,祠於大市長岡岬おほいちのながをかのさき。然是渟名城稚姬命既身體悉瘦弱みみことごとくにやせよわり,以不能祭。是以命大倭直やまとのあたひ祖長尾市宿禰ながをちのすくね令祭矣。  二十六年,秋八月戊寅朔庚辰三,天皇敕物部十千根大連もののべのとをちねのおほむらじ曰:「屢遣使者於出雲國,雖檢校其國之神寶かむたから,無分明わきわき申言者。汝親行于出雲,宜檢校定。」則十千根大連校定神寶,而分明奏言之。仍令掌つかさどらしめ神寶也。  二十七年,秋八月癸酉朔己卯七,令祠官,卜兵器つはもの為神幣みてぐら,吉之。故弓矢ゆみや及橫刀たち,納諸神之社。仍更定神地かむところ、神戶かむへ,以時祠之。蓋兵器祭神祇,始興於是時也。
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